中国動画共有サイト、弱肉強食の13年史(前編)―創生期から金融危機まで

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中国動画共有サイト、弱肉強食の13年史(前編)―創生期から金融危機まで

视频网站13年:土豆、PPTV、酷6网、优酷们的生死书

杨伟东和央视正式签署合同世界杯版权的那天晚上2点,马云在钉钉上询问“成了吗?”,杨伟东“成了!”5月29日优酷宣布拿下世界杯版权。

版权被杨伟东拿下,对马化腾来说是很头疼的一件事情,毕竟在腾讯眼里世界杯早已是囊中之物,甚至打着世界杯的名字招商了30亿。

在5月29日杨伟东宣布的那一刻,马化腾应该在急着准备危机公关。当然,这对于所有人来说,“优酷宣布拿下俄罗斯世界杯版权,确实是一个大的逆转”。

视频行业13年,世界杯战、烧钱战、合并战、版权战等,创业就是由一个个战斗构成的。在这刀风剑雨中,底牌优势的较量,权力几经更迭,话语权最终还是落到了BAT手中,曾经400多家视频网站,现在只留下欢笑和泪水都书写在故事里。

1、如火如荼,方兴未艾

2005年4月15日,在那个潮湿的南方深夜里, 土豆创始人王微和开发工程师两人瞪着电脑屏幕,犹豫到底要不要发布土豆网,5个人已经白天黑夜的忙活了3个月。“还有好几个Bug没修。”开发工程师说,“心里害怕。要不要再延几天?”土豆这条路没有参考对象,5个人都是按照自己的想法去做,心里也没底。

“发布吗?”工程师问王微,凌晨了。

“发布吧”,王微说,“他妈的我已经付了800块钱的新闻通稿费了,不能退款。”

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还好王微心疼那800通稿费,做了个正确的决定。土豆上线几天IDG的高翔就找到了王微,两人在上海宝莱娜的花园里聊了11个半小时,各自喝了5升的啤酒之后去见了毛丞宇,杨飞,还有章苏阳。他们后来都是土豆最早的投资人。

彼时,张洪禹和雷量还挤在成都一间不到10平方米的宿舍里忙的热火朝天,离张洪禹生病出院重新坐到电脑面前才一个月。6月21日第一版PPS上线的晚上,两个人兴奋的一夜无眠,一直到早上9、10点才睡着。

2004年张洪禹在网上结识了雷量,一个在哈尔滨,一个在成都,第一年两人通过MSN交流信息,两人共同研制了一款基于P2P技术的万维网音乐搜索软件“MP3猎手”。

正是顺利的时候,张洪禹因胸腔积液连发20多天高烧,住了50多天医院。期间又因为误诊,再度高烧延长住院,就这样比王微晚了一步。

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同一时间,姚欣休学开始创业,他拜访了近百个投资商,很多投资商连门都不让他进,一趟趟被打出来。但是姚欣很坦然,他当时面对上海文广负责人的否定,淡定的说,“没关系,下个月再见!”

张洪禹和雷量也吃过找投资的苦,他俩是走技术路线的,在资本的敏感度上一直是弱点。当时他们去北京见一位台湾投资人,见面中投资人问他们明年预计净收入多少,两人尴尬地面红耳赤直接语塞,投资人毫不客气的批评了他们半小时。

从酒店出来后,张洪禹两人默默沿着街边马路一直走,后来张洪禹对雷亮说:“继续干,咱不融资了。”

姚欣创立PPTV的契机源于2002年韩日世界杯开幕式,当时在华中科技大学里面,5000多名大学生守在电脑前看比赛,脆弱的校内网不堪重负被挤瘫痪了。22岁的姚欣无奈地走出了宿舍,但实验室、网吧都全是人,最后他只得跟15个同学挤在一间房看完了比赛。

两年后姚欣瞒着父母办理了休学,于是以26栋寝室为工作室,计算机中心为服务器托管,姚欣和团队开始了封闭式开发,最刚开始姚欣住在校外,每天花一个多小时骑车到26栋。

不愧是学霸,两个月姚欣就用VC6、C++码出一万多行代码,全球首款网络电视直播软件诞生在了韵苑宿舍。

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(PPTV创始人姚欣)

姚欣拿到天使融资的时候,冯鑫还为创业找投资跑的腿都快断了。他找到前老板周鸿祎,又去找了鲍岳桥,朱从军和华军等人,投资完全没影,当开始创业才发现没有想象地简单。

被拒绝的次数多了,冯鑫终于放弃了找别人的想法,“拿别人200万,还不如自己掏20万。”于是2005年,他自掏腰包50万,创办了酷热影音,做播放器。

而2个月前,56网就诞生了,视频行业曾一度是56网周娟等人的天下。但2008年的一次失误就让56网再难回到龙头位置,56网曾因视频审核失误被罚闭站1个月。

当时公安和网管部门到机房拔完线就走了。内部没有一个人知道是遭到了整顿,网站不能正常运行,技术团队还以为被黑了,问遍所有人才知道是被拔线。这时再去疏通人脉,什么都晚了,优酷和土豆瓜分了56网流失的人气。

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冯鑫是个想干大事业的人,曾经拉了几个同学就出去闯荡,修过BP机,跑过煤炭运输,开过食品公司。虽然创业前没人帮忙,但创业后还是有贵人相助,后来在蔡文胜的帮助下,收购了周胜军的暴风影音。

在那个还不是内容为王的时代,暴风影音牢牢占住了播放器第一品牌的地位。

2、群雄逐鹿

这个行业真正喷发的一年是在YouTube被收购后,最直接的表现就是400多家视频网站如雨后春笋般一下冒出,最火的时候一天就能出现30家。

前有王微、周娟等人开路,后还有数百家新型企业摩拳擦掌,视频争霸战正式打响。

1999年刘岩第一次看到了宽带时代的先机,那时候宽带还不普及。他去注册公司的时候,北京市工商局还让刘岩解释什么叫宽带。他先去签了3000部国产电影和3000部进口电影的版权,但是领先的意识还没配上合适的环境,于是第一次参与视频计划破产。

此时古永锵已经为搜狐忙活了一年,他进入搜狐源于一次偶然的机会。当时在北京国际大饭店一楼咖啡厅,张朝阳喝咖啡,古永锵喝茶。本来是谈给搜狐投资的事情,谈着谈着张朝阳就不要古永锵的钱了,直接要他这个人,把古永锵给拉过来帮他融资。

刘岩在摸爬滚打一圈后,趁着Google 以16.5亿美元收购YouTube的热度,2006年3月,回来重新做起了六间房,然后靠着《一个“馒头”引发的血案》等短视频,一度成了中国最大的视频分享网站。

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同一时刻,古永锵也在策划着上线优酷,古永锵离开搜狐那座大厦也才一年。当搜狐上市后,古永锵转任搜狐COO开始介入公司的整体运营,古永锵开始不甘心做老二,他要尝尝老大的滋味。

于是他对外的说法成了他和张朝阳的关系是拍档,他是创业经理人不是职业经理人,不动声色的把自己变成了搜狐的另一个代言人开始蚕食张朝阳的地位。

如果不是一次偶然事件张朝阳都不知道自己快被架空成“吉祥物”了。2002年,张朝阳和古永锵一起去电视台录节目,节目录制结束之后,张朝阳勃然大怒。他发现,主持人只问自己关于八卦的问题,而跟公司业务有关的问题直接问古永锵。自己虽然搞娱乐,但公司还是自己的啊,张朝阳回去就撤换了市场总监,把市场部改组来分散古永锵的权力,古永锵被边缘化只负责内容和销售。

作为冷静的银行家,古永锵在这种情况下还能够一直给自己找事情做,并且理性的做好所有的工作,在2005年第一季度的财报发布之后才正式离职。然后他去硅谷待了半年,整天就悠闲地陪妻子出去散步,或者待在家里上各种网站玩,后来还跑出去旅游了3个月。

这时候汪延还是新浪CEO,不过一年后就换曹国伟成了新浪第五代老大,曹国伟上任半年后新浪就推出了一款名为“新浪播客”的视频分享平台。新浪播客和优酷的业务范围比较相似,都在争夺拍客市场,2009年在市场的刺激下融合了新浪宽频转身成为新浪视频,不温不火的到了现在。

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2007年,A站也正式把弹幕引入国内,A站的起源,充满了理想主义的热情。最初全凭粉丝的一腔热血在经营,管理员在QQ群里审核视频。

两年后A站最大的对手徐逸上线了B站,对于徐逸来说,这个进场恰到好处。和主流视频网站不同,A站和B站走的都是鬼畜、二次元,所以虽然前面已经有很多前辈抓住了市场,但对他来说最大的威胁A站正疲于内部的管理。徐逸就这样占据了二次元的市场,还抢去了二次元“一哥”的地位。

张朝阳给这个行业,也给自己培养出了古永锵、龚宇、李善友这些强劲的对手。2011年4月还在为搜狐视频邓晔和刘春的内斗烦恼不已的时候,古永锵都已经上市优酷好几个月了。

视频这块蛋糕谁都想尝一口,但市场就这么大地方,进去很容易,立身却很难。

3、金融危机下的洗牌

在这条路上,荆棘遍布。2008年,全球经济危机侵袭,国内“烧钱”的视频行业一片哀鸿,融资迫在眉睫。

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2006年6月,李善友跟张朝阳道别离开了豪华气派的搜狐大厦,带着200万元就在一个农民房里面捣鼓出了酷6网。金融危机的困境让李善友心情一下降到了冰点。他不得不去找靠山,于是2009年在朋友牵线下和陈天桥开展了上海首次约会,对于陈天桥来说是瞌睡遇到枕头,正好视频是陈天桥打造娱乐帝国不可或缺的一环。

陈天桥是想收购的,但是他很精明。买卖双方一旦有一方示弱就容易被压价,陈天桥看到酷6的形势一开始就故意压价,最后两个人讨价还价以近4000万美元成交。

4000万美金也是姚欣第三轮融资的金额,在2008年次贷危机发生之前,姚欣正准备第三轮融资。结果晚了一步,融资就此搁浅,眼看着古永锵和王微早已融资完成大步向前走,姚欣只能无奈的看着账面上的钱越来越少。

那段时间猎头天天在公司门口活动,各种关门的谣言传的飞起,姚欣都做好退出CEP的准备了。一个半夜四点多的电话让姚欣重新坚持下去,大晚上那个员工对姚欣说他把部门都解散了,也把自己裁员了。

后来,还有另外一个他在校招聘的学弟,他在走之前希望姚欣能够坚持下去。姚欣觉得不能辜负大家的期望,咬咬牙还是过了冬,终于在经历一年的折磨后,完成了C轮融资,这次融资只有B轮8400万美金的一半。

危机下只会想着先解决当前问题,等度过之后各种矛盾就暴露出来了,更何况是各取所需的“商业联姻”。

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陈天桥第一次和李善友见面讨论投资问题的时候就说,“我们的价值观,理想,梦想,都是一样的”,李善友也一直高调演讲把陈天桥奉为知己。结果一年后酷6投入资金巨大,亏损却依然严重,陈天桥开始展现出商人本色,数次严厉地批评李善友:“网站做得太烂了。”打算让酷6走成本更低的新闻资讯路线,这完全不符合李善友的战略发展。

于是在李善友和陈天桥的斗争中,李善友败北归山,这个创始人在“孩子”上市后带着700多万美元出局,在离职的那天,李善友从又破又旧的小白楼出发,一路经过学院路、西坝河,重温自己这五年来走过的创业之路。

据说在离职前,李善友和陈天桥有过激烈争吵。陈说过自己只需要好人、明白人和能人。在他眼里李已经不符合他的标准了,所以他派人彻查李善友,找到一些财务上的漏洞,李被迫辞职,并从此对外不提盛大半个字。这都是陈惯用的把戏,李善友这个“侠客”肯定是玩不过。

在金融危机下各个公司都要找寻出路,李善友找到了陈天桥。爆米花网的CEO吴根良无奈裁员自救,然后又在2011年砍掉长视频,公司从原来的雍和宫歌华大厦搬到了西直门西环广场,重新招兵买马转做视频社区。

对于迫不得已的转型,吴根良也很无奈,“当时已经谈好了融资,最后投资方却食言。没有了资本助推,长视频业务拼不动版权,被釜底抽薪后,自然在竞争中败下阵来。”

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与此同时,六间房创始人刘岩也在这危机中苦苦自救。裁员、裁撤业务,从250人到60人,留下的人薪水减半,没有三险一金,所有的人都在黑暗中挣扎。

那时一个月带宽花费最多要400万美金,这完全负担不起。于是刘岩下了一个死命令,要求团队做到节省带宽,同时又不能损失流量。当时的回复是,“做不到!”绝望的刘岩当场大发雷霆,撕裂着嗓音喊道,“操,必须做到,没有为什么。”不疯魔,不成活。于是整个工作室就在办公司里开始了不眠不休的加班,达到要求后,当时负责相关技术的同事刚走回座位就晕倒了,累的。

内部没钱就算了,外面还一堆的人追着要钱,刘岩每天都被卖带宽的债主堵在办公室。刘岩被逼的放出狠话,“一定还清每一分钱”,同时刘岩大笔一挥写下“何事慌张”四个字,挂在了六间房的大门口。压力最能激发人的潜力,六间房一方面做挣钱的生意,一方面做新业务。终于等来了曙光,网络直播让六间房起死回生。

在这场残酷的战争中,优胜劣汰是自然的法则,“活”下来的也是精疲力尽。

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2018年サッカーW杯ロシア大会開催で、中国の大手動画共有サイト優酷(Youku)は、国内でのインターネット放送権を獲得した。涙をのんだのがライバルのテンセント(騰訊)。放送権はほぼ手中に収めたと目されていたが、まさかの逆転劇に終わった。

中国国内で10年以上続く動画共有サイトの陣取り合戦。W杯放送権にとどまらず、合併や資金投入合戦などさまざまに形を変えて繰り広げられた戦いに、これまで400社超が参戦した。そして2018年現在、勝ち残ったのはやはり三大IT企業「BAT(バイドゥ、アリババ、テンセント)」だった。その歴史を2005年から振り返る。

土豆網が誕生した2005年が中国動画サイト元年。

2005年は中国動画サイト元年と言える1年だった。知識や技術、アイディアはあっても資金は持たない若者たちが、学生寮や小さなアパートの一室で寝食を忘れて奮闘し、多くのサービスを立ち上げた。

先陣を切った一つが、2005年2月に正式リリースされたオンラインTVサービス「PP視頻(PPTV)」だ。立ち上げたのは休学中の大学生、姚欣だった。きっかけは、2002年のサッカー日韓W杯だったという。大会期間中、彼の在籍していた華中科技大学では5000人の在校生が試合を観戦するためインターネットに接続、学内のサーバーが落ちるというトラブルが頻繁に発生した。以来、姚欣はPP視頻を立ち上げるために数人の仲間と学生寮の一室を拠点とし開発に没頭、自身は学業を棚上げして資金集めのため100人以上もの投資家を訪ね歩いた。最終的にはP2P(端末間通信方式の1種)とCDN(コンテンツデリバリネットワーク)を融合したテレビ番組のライブストリーミングサービスを実現した。

PPTV創業者、姚欣

同年4月には、中国の動画共有サイトと言えば必ず名前の挙がる「土豆網(Tudou)」も誕生した。土豆網はわずか5人のチームでスタートした。

昼夜を問わない開発作業が3カ月続き、ようやくリリースされた土豆網。創始者の王微に成功の確証はなかったが、「プレスリリースの出稿費を無駄にしたくない」との理由でえいやと公開に踏み切った。リリース数日後、王微の前にベンチャーキャピタルIDGのパートナー高翔が現われた。彼が土豆網の最初の出資者となった。

6月にはP2Pを駆使した会員制動画サービス「PPS影音(PPStream)」が登場した。インターネット上で出会った張洪禹、雷量の2人が、わずか10平米のアパートで開発したサービスだ。技術開発には熱心だったがお金に無頓着だった2人は資金繰りに難航、「誰の出資も受けずにやっていこう」と腹をくくった。

2006年7月、多数のファイル形式に対応するメディアプレイヤー「酷熱影音」を発表した馮鑫も同じく出資者を見つけることができず、自身の50万元(約800万円)を投じて起業した1人だ。

この年に登場した動画サイトで最初に頂点に立ったと言えるのが、大手ポータルサイト網易(NetEase)出身の周娟が4月に正式リリースした「56網(56.com)」だ。中国の動画サイトに多いドラマやアニメなどTV番組の転載ではなく、一般ユーザーによる投稿動画をメインとしたサービスだ。ただし、2008年6月に関係当局から業務停止の措置が下り、サイトは1カ月間の閉鎖を余儀なくされた。理由は諸説あるが、正式な営業許可を取得していなかったからだと言われる。事件をきっかけに、中国の動画サイト業界は「土豆網」と「優酷網(Youku)」の二強時代に突入していく。

2000年代後半、優酷とbilibiliが生まれ大戦国時代に

2006年10月、世界最大の動画共有サイトYouTubeがグーグルに買収された。ここから中国の動画サイトは爆発的成長期に入る。雨後の筍のように約400のサービスが登場した。

2006年5月に公開された「六間房(6.cn)」は一時期、国内最大の動画共有サイトとなった。創設者の劉岩は1999年に国内外の映画6000本の版権を獲得するものの、これをネット配信するという事業計画が工商行政管理局の理解を得られず、当時は会社登記を断念。7年越しに事業化を実現した。

同年12月に正式リリースされた優酷は、中国三大ポータルサイト「捜狐(SOHU)」元COO兼総裁の古永鏘(ビクター・クー)が立ち上げた。1998~2005年まで捜狐に在籍するも、次第にCEO張朝陽との関係が悪化して離職した人物だ。

そのほか、アニメオタクを主要ターゲットにして成長した動画共有サイトもある。2007年6月にサービスを開始した「AcFun弾幕視頻網(AcFun)」と、2009年6月に発表された「bilibili(ビリビリ動画)」だ(※bilibiliと改称したのは2010年1月)。いずれも再生中動画の時間軸に沿ってユーザーがコメントを書き込み、表示させる機能を売りにしている。

リストラ、仲たがい……金融危機が業界を切り裂く

2008年、世界金融危機が発生し、各動画サイトは深刻な資金難に陥った。

2006年6月にベータ版をリリースした動画共有サイト「酷6網(KU6.com)」は、サービス存続のために2009年7月、ゲーム開発企業の盛大互動娯楽(シャンダ・インタラクティブエンターテインメント)の傘下に。創業者の李善友は泣く泣く4000万ドルで会社を売った。2010年6月には中国の動画共有サイトとして単独で初めてNASDAQへの上場を果たす。しかし深刻な赤字が続き、両者の蜜月期は終わった。李善友は創業5年にして離職に追い込まれた。

酷6網と同じく4000万ドルを調達しかけたものの、金融危機のあおりでふいにしてしまったのがPP視頻だ。学生時代に創業した姚欣は27歳になっていた。自身の同窓生でもある創業メンバーを切り捨て、自身も無給で働くことでなんとか倒産は免れたものの、再び4000万ドルを調達し、何とか首をつないだのは1年後のことだった。

この時期、各動画サイトは日々を生き抜くことで精いっぱいで、事業縮小、大規模なリストラ、大幅な給与削減によってメンバー間のあつれきを数多く生んだほか、多くのサイトが吸収合併を繰り返すことになった。(後編に続く)
(翻訳:愛玉)

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