月曜日が憂鬱であることの本質的な理由
毎週月曜日に感じる何とも言えない憂鬱と倦怠感。その理由はどこにあるのだろうか?WEBサービス「Medium」に投稿されたコラムによると、「月曜日そのものが問題ではない」ではないという。
コラムの筆者がこの原稿を書いているのは日曜の夜。まもなくやって来る月曜日の憂鬱をすでにひしひしと感じている。月曜日の何がそんなに嫌なのか? 自分の時間がないからか? 予定も立てずに気ままに過ごすことができないからか? 規則正しい生活に将来を見出せないからか?
月曜から金曜まで定時勤務をしている人にとっては、ウィークデーは「自由を奪われる5日間」だろう。職場に合わせ、同僚に合わせ、顧客に合わせ、自分を失う5日間だ。そして次の週末のために何とか日々を乗り越える。月曜日は、大切なものを失うことと同等の意味を持つ。

「我々は月曜が嫌なのではない。資本主義が嫌なのだ」。誰の言葉か定かではないが、この考えには大いに共鳴せざるを得ない。
週末が終わり、月曜日が始まると、資本主義社会の人間である我々は、日々の仕事に戻らざるを得ない。決して好きとは言えない仕事のために、自分の人生も時間もエネルギーも注ぐ。個人的な夢は捨て、ローンの返済のために、十分とは言えない給料のために、無味乾燥な毎日を生きる。
実際、資本主義社会であろうとなかろうと、決まった勤務時間というものがあり、それに沿って生活をしなければならない状況には変わりない。仕事は生活の糧を得るためだけではなく、社会に参画するための重要な手段だからだ。
ドイツ出身の哲学者ハンナ・アーレントの著書『人間の条件』では、人間の活動的な生活を構成する3つの要素を「労働」「仕事」「行動」と定義している。
「労働」とは、人間が生命をつなぐために行うべきことを指す。食べることや、食べるものを生産すること、子を産み育てることなどがこれに当たる。「仕事」とは、人類が構成する世界をつくり上げる作業だ。建造物を造ること、紙幣を刷ること、レアメタルを採掘すること、物資を運搬すること、街角で広告チラシを配布することなど、さまざまな行為がそれに当たる。
最後の「行動」とは、人と人との間に発生するアクションと対話を指す。コミュニケーションや政治がそれに当たる。我々は「行動」を通じてのみ、自己表現をすることができる。つまり、「行動」こそが我々の本質だ。

行動を起こすには、ある程度の自由が必要だ。自由があってこそ、行動を起こす余裕が生まれる。この「行動する余裕」は、現代社会にあって極めて確保が難しいものになっている。我々が何らかの仕事に就けば、多くの拘束事項を抱えることになる。物流倉庫での流れ作業であろうと、いわゆるホワイトカラーの仕事であろうと、サービス業であろうと、程度の差こそあれ、環境に合わせるために、我々は自分の思考を奪われる。
筆者は学校教師だが、教師の仕事というのは、決められた分量の決められた内容を既定の時間内に学生に教えるために、1分1秒とも無駄にできない。この大きな責務を完遂するために、ほんの少しの独創的なアイデアも実践する余地はない。
規定と義務でがんじがらめのウィークデーと打って変わって、週末は思う存分、自分の時間を過ごせる。仕事に自分らしさを見いだせないなら、せめて休日くらいは思い切り好きに過ごそうと我々は考える。
しかし、他者の要求に日々応えることばかり考えていると、我々は次第に自分らしさを失っていくのではないか?さらには、「自分らしさとは何か?」を考えることすら放棄するようになるかもしれない。自分を見失い、アルコールやタバコ、テレビの世界に逃げて自分を麻痺させる。「忙しいから」「予定があるから」と、いくらでも言い訳をつくって、思考することから逃げる。そのうち、自分がいかに不自由な人生を生きているかを忘れていく。
さて、我々が嫌っている月曜日だが、我々は本当に月曜日が嫌いのだろうか? 休日明けの出勤そのものが憂鬱というより、月曜日が我々に問いかけてくる問題が憂鬱なのではないだろうか?「この人生、真の自由を享受できる時間はどれだけあるのだろうか?」という問いが。
(翻訳・愛玉)
※この記事は、こちらのサイトを翻訳しています。